特集:今、伝えたい記憶 水中特攻兵器 [回天]

山口県周南市大津島。この島には回天特別攻撃隊の想いが眠っています。/今、伝えたい記憶 水中特攻兵器 [回天]

 山口県周南市大津島には、太平洋戦争末期に結成された「回天特別攻撃隊」の遺構が残っています。このことは私たちぶちもんスタッフも知っていましたが、どういったものだったのか、詳しくは知りませんでした。
 今回、(一財)周南観光コンベンション協会様とご縁があり、「平和の島プロジェクト」という活動があることを知りました。このプロジェクトでは基金を設立し、回天を多くの方々に知って頂くことで、悲惨な戦争の史実を後世に伝える活動をされています。
 山口県の人間として、また一人の人間として回天特別攻撃隊を知りたいと思い、私たちは大津島に渡って回天の記憶を探してきました。そこでたくさんの悲しい記憶に触れてきて、戦争は二度と繰り返すべきではないと、またそのためには、この史実を後世に正しく語り継ぐべきだと強く思いました。
 このページでは回天特別攻撃隊、そして(一財)周南観光コンベンション協会様の「平和の島プロジェクト」を紹介させて頂きます。勉強不足の点も多々ありますが、この記事がみなさまに回天特別攻撃隊について知って頂くきっかけとなれば幸いです。

愛する人と故郷を守るため、大津島に集った若者たち 〜回天特別攻撃隊について

太平洋戦争末期の日本

 1942年(昭和17)6月、ミッドウェー海戦の敗北を機に、東南アジアにあった日本の拠点は次々に陥落。アメリカを中心とした連合国軍に制空権、制海権を奪われた日本は、ついに本土決戦の危機を迎えました。資源や食糧が枯渇し、人々が疲弊していく中、何としても国土を守らなければならないという機運が若者を中心に高まっていきます。呉海軍工廠に所属する黒木博司中尉と仁科関夫少尉も、日本を救う画期的な戦法を求めて、日夜研究を重ねていました。

水中特攻兵器「回天」の誕生

回天模型内部(回天記念館所蔵)回天模型内部(回天記念館所蔵)。1人入るのがやっとの狭い空間で、操縦していた様子が想像されます。 黒木大尉、仁科中尉が注目したのは、当時日本が高性能を誇った九三式酸素魚雷。本来弾薬であるはずの魚雷に、人間が搭乗、操縦できるような改造を施し、自ら体当たりを行うことができる兵器を発案しました。しかし日本海軍では、兵士の必死を前提とした作戦や兵器は認められていません。2人は軍務局の担当者を説得して回り、海軍大臣にも直談判を行いました。
 そして1944年(昭和19)2月、日本海軍最大基地であったトラック島が陥落。この報を受けた海軍省は、脱出装置の設置を条件に、兵器の試作を決断しました。仮称「人間魚雷」の開発は、呉海軍工廠において極秘裏に進められていきます。
 しかし、脱出装置は人間魚雷の性能を著しく低下させ、実戦部隊が要求する効果を有さないとして、黒木、仁科の両名は真っ向から反対。最終的には脱出装置を設置しないまま、同年8月にマル六金物という呼称で正式に採用されました。黒木大尉の発案により、“天を回らし戦局を逆転させる”という意味を込め、「回天」と名づけられることになります。

搭乗員の募集と基地の開設

回天訓練基地跡回天訓練基地跡。ここに回天が運び込まれ、訓練が行われました。 回天が正式採用される約1ヶ月前、海軍省は搭乗員の募集を開始。海軍兵学校、海軍機関学校、海軍水雷学校、海軍予備学生の中から17歳以上を対象に、選抜、募集が行われました。また、上海海軍航空隊に入隊予定だった海軍飛行予科練習生も、航空機の燃料が不足している情勢下において、その対象となりました。
 回天は極秘作戦のため、募集の際に兵器名は明かされませんでした。ただこの新兵器は、身を挺して一撃必殺を期するものであるために、特に危険が生ずる可能性があること。訓練を終了すれば、ただちに第一線に出撃する予定であること。そして妻子ある者、長男である者、兄弟のいない者は志願しないことが伝えられました。
 厳重な警備の中、渡された紙片に印を書き込み、5分以内に提出するよう求められます。熱望する場合は二重丸、希望する場合は一重丸、希望しない場合は無印。相談すら禁じられた短い猶予の中で、9割の者が二重丸を書きました。その中には己の決意を大書する者や、血判を押す者もいました。
 しかし志願したとしても、回天搭乗員には高い身体能力と判断力、決断力が求められ、その試験は極めて難関でした。志願者の中には何度も落第した末、ようやく合格できた者もいました。
 そして1944年(昭和19)9月1日、九三式酸素魚雷の発射試験場施設を利用した回天訓練基地が、大津島に開設。その後、光、平生、大神(大分県)にも同様の基地が開設され、全国から集まった若者たちが厳しい訓練に挑んでいきました。

死と隣り合わせの過酷な訓練

魚雷見張所跡魚雷見張所跡。回天訓練基地から発射された回天を見張っていた場所です。 大津島で開始された訓練の2日目、午後から天候が急変し、指揮官の板倉少佐は訓練中止を決断しました。しかし黒木大尉と樋口大尉は板倉少佐を説得し、荒天をおして訓練を決行。2艇が追尾しますが、うねりを上げる波にさらわれ、2人が乗った回天は消息を絶ちました。
 夜を徹し必死の捜索が続けられましたが、翌日午前9時、海底に突き刺さった状態で発見。内部から見つかった黒木大尉の手帳には、事故直後の処置や経過、今後の対策などが、事細かに記録されていました。そして内壁には、両大尉の救国への悲願が、壁面を覆い尽くすほどに綴られていました。
 この悲報は回天特別攻撃隊に大きな衝撃を与えましたが、悲痛をおして仁科中尉が先頭に立ち、皆を奮起させました。朝は操縦訓練、夜は研究会と、隊員たちは過酷な訓練に明け暮れました。中には事故を起こして漂流したり、また志半ばで亡くなる隊員もいました。そしてその脇を固める整備員も、不眠不休で回天の整備に奔走しました。

愛する者と故郷を守るため

回天訓練基地へと続くトンネル回天訓練基地へと続くトンネル。回天はトロッコで、搭乗員は歩いてこのトンネルを抜けて行きました。 1944年(昭和19)11月8日、回天特別攻撃隊の第一陣となる「菊水隊」が出撃。伊号第36、37、47潜水艦の3隻に搭載された12基の回天と共に、12名の搭乗員も乗り込みました。その中には黒木少佐の遺骨を胸に抱く、仁科中尉の姿もありました。
 そしてその12日後、ウルシー環礁に停泊する米艦船群に向けて、伊号第36、47潜水艦が攻撃を開始。伊号第47潜水艦から、仁科中尉の搭乗した1号艇が突入しました。爆発の轟音と衝撃が響き渡る中、2隻から4基の回天が続き、ついに艦隊随伴輸送艦「ミシシネワ」が炎上沈没。任務を終えた2隻は、11月30日に呉に帰還しました。しかしながらパラオ諸島に向かっていた伊号第37潜水艦は、攻撃予定の前日に米軍の爆雷攻撃を受け、回天を発進させることなく沈没しました。
 伊号第36潜水艦で待機しつつも、回天の故障で突入できなかった3名の搭乗員は、大津島に帰還後、板倉少佐に再出撃を申し出ました。しかし一度出撃した者は二度と出撃させない決まりとなっていたため、この上申は却下されました。やむなく3人は、司令官の長井少将に直訴。自決しかねない勢いに再出撃を許され、これを機に帰還者の再出撃が慣例となりました。
 こののち、4つの基地から金剛隊、千早隊、神武隊、多々良隊、天武隊、振武隊、轟隊、多聞隊、神州隊が出撃。また本土決戦に備え、本土から直接発進して攻撃する「基地回天隊」が、関東から沖縄にかけ12基地に配備されました。
 この菊水隊出撃の前日、徳山(現・周南市)にある料亭・松政を訪れた板倉少佐は、すき焼き会を開催したいと申し入れました。この料亭で女中として働いており、“お重さん”の愛称で隊員から母のように慕われていた倉重朝子さんは、物資不足の中を皆で奔走し、宴会の開催に漕ぎつけました。翌年3月、菊水隊の任務が新聞報道によって明らかにされます。お重さんはこの時初めて、彼らが特攻隊員であったことを知りました。これからのち、お重さんは出撃していく隊員たちの背中を見送り、また悲しみに耐えながら供養を続けていきました。
 これら回天作戦による戦没者は、回天搭乗員および整備員、潜水艦乗組員などを合わせ、1,299名に上りました。しかしながら回天の戦果は完全には把握されておらず、生存者の証言や数少ない資料の中から調査、確認が続けられています。

終戦、そして記憶を風化させないために

再建された回天碑再建された回天碑。 1945年(昭和20)8月15日、玉音放送をもって太平洋戦争は終結しました。しかしながら雑音で放送が聞き取れなかった平生基地では、翌16日に神州隊が出撃。八丈島の基地回天隊でも、10月末に武装解除されるまで出撃態勢を継続するなど、現場では混乱が生じました。また出撃を期して待機を続けていた搭乗員の中には、日本の敗北を知って自決する隊員もいました。
 解隊された大津島基地では、元隊員たちが各地に復員していく中、回天関連資料の処分が始まりました。連合国軍上陸後には宿舎や訓練施設などが破壊され、調査が済んだ回天も切断され海底に沈められました。
 そんな状況下、呉海軍工廠の水雷科嘱託として任務に従事していた毛利勝郎氏は、日本のために命を懸けた回天特別攻撃隊の存在が消されていくことに危機感を覚え、回天の設計図や出撃記録、隊員の遺品、遺書、写真などを基地から持ち出しました。米軍からの厳しい追求に耐えながらも、資料や遺品を守り抜き、何十年もかけて全国の遺族の元を訪ね歩いて、遺された品々を届け続けました。
 一方生存した元隊員たちは、同じ徳山湾に浮かぶ黒髪島の石を用いて、宿舎跡に回天碑を建立しました。彼らは10年後の1955年(昭和30)11月8日に再会することを約束して、各地に復員していきます。そして再び集ったとき、回天碑は破壊され、土に埋められていました。彼らはひどく落胆しましたが、にわかに起こった募金活動と多くの人々の支援や尽力により、回天碑は現在のものとして再建されました。この碑に刻まれた「回天」の文字は、黒木少佐の遺筆を起したものです。
 こうした活動の中で、1962年(昭和37)に回天顕彰会が発足。元隊員や遺族、毛利氏、お重さん、地元大津島の方など、多くの人々の願いや想いが集まって、1968年(昭和43)、ついに「回天記念館」が建設されました。現在展示されている多くの資料は、遺族の方々や毛利氏によって納められたものです。
 毛利氏の献身的な努力から始まった記憶を守る活動は、回天の真実を未来へと伝える大きな礎となっています。

回天の記憶が残る、周南市・大津島

馬島港(大津島)馬島港(大津島) 回天作戦の実施に際し、先駆けて訓練基地が設立された大津島は、当時の遺構が残っている唯一の場所です。
 整備員が搭乗員と共に歩きながら、調整工場から回天を運んだトンネル。その先にある、回天が納められるように改造された「回天訓練基地跡」。訓練中の回天が事故に遭った場合に、即座に発見できるよう見張りを立てておく「魚雷見張所跡」。その他多数の施設跡が、隊員たちの記憶と想いを眠らせたまま、静かな大津島にひっそりと佇んでいます。
 大津島生まれで大津島育ちのおばあさんは、小さい頃に隊員のお兄さんたちに遊んでもらったことや、特攻隊員だったことを後になって知って悲しい思いをしたことなどを語られていました。また島を歩いていると、回天への想いを綴った島の子どもたちの言葉が、道々に掲示されています。地元・大津島の方々にとって、回天の記憶は特別なものです。親から子へ、そして孫へと、大切に守り、語り継がれています。

隊員たちの想いと願いを伝える「回天記念館」

回天記念館入口回天記念館入口。両側には、隊員の名前が刻まれた石碑が並びます。 宿舎の跡地に建設された回天記念館には、回天に関する資料が納められています。館内に展示されているパネルには、当時の世界情勢から始まり、回天開発の歴史的背景、回天特別攻撃隊の結成、訓練、出撃、そして終戦を迎え、戦後から現在までの社会と回天の関わりが、順を追って紹介されています。
 その中でひときわ目を引くのが、145名の隊員たちの遺影と遺品の数々です。着用していた軍服など身の周りの物をはじめ、作文や通信簿、家族や友人にあてた手紙。そして遺書。隊員の戦死通知や、亡くなった息子を想って母がしたためた回想録もありました。
 父母や兄弟姉妹、妻、子どもたちをはじめ、愛する者を守りたい、愛する故郷を守りたいという隊員たちの強い願い。そして黙って出撃していく姿を、見送ることしかできない家族の悲しみ。ひとつひとつの遺品には、たくさんの人々の想いが込められています。
 そして展示された最後のパネル。そこには今なお世界各地で起こっている問題に対し、警鐘が鳴らされています。置かれた状況の中、回天特別攻撃隊の隊員たちが、命を賭して切り開こうとした平和への道。この礎があってこそ、日本は戦争のない、世界有数の先進国に発展しました。豊かな時代に生まれた私たちに、何ができるのか。恒久平和と鎮魂の施設・回天記念館は、国境を越え、人種を越え、全世界に向けて、平和への姿勢を問いかけています。

親愛、尊敬、感謝……
人が人を思いやる「人間賛歌」の心こそ、世界平和への礎となる。〜回天記念館 松本紀是館長のお話を聞いて〜

回天記念館 松本紀是館長回天記念館 松本紀是 館長 回天記念館の館長を務める松本紀是(としゆき)さんは、終戦の年1945年(昭和20)の生まれ。戦争を知らない世代ですがとご本人は仰られますが、回天に関する深い知識と平和への志を胸に、館長としての職務に従事されています。全国から訪れる子どもたちや団体の方々に館内の解説を行い、また学校や市民団体、自衛隊基地など、連日様々なところから要請を受けて、訪問講演をされています。回天を語り伝えるとき、松本館長は中立の立場で回天の史実を正しく語り、平和の尊さが伝わるよう心がけておられます。
 ある時、講演を聞いた小学生から、平和へのメッセージをくださいとの依頼があったそうです。これまでたくさんの人々に話をされてきた松本館長でしたが、この時はとても悩まれたといいます。そうして数日後、色紙にしたためた言葉は「人間賛歌」。親愛、尊敬、感謝など、人が人を敬い、互いに思いやる心こそが、全世界を平和へと導く礎になるとの意味が込められています。このわずか四文字の中に、恒久平和を願う松本館長の想いが集約されているようです。
 また幼稚園の子どもたちが回天記念館を訪れたとき、松本館長は子どもたちに大切なものを尋ねられたそうです。大好きなオモチャやお菓子の名前を元気いっぱいに教えてくれる子どもたちでしたが、訪問を終える頃には、一番大切なのはおじいちゃんやおばあちゃん、お父さんやお母さんだよと言ってくれたそうです。これまでの活動の中で、この子どもたちの言葉が一番心に残っていると松本館長は仰られました。
 平和とは心が穏やかであること。その平和を脅かすいじめと戦争は似ていると、松本館長は語ります。互いを認め合い親愛の情を抱けば、いじめはなくなる。いじめがなくなれば、戦争など起こらない。古来より戦争は、人と人との対立から始まりました。松本館長の語り口はやさしく、一見当たり前のことのように感じられますが、目の覚めるような思いで戦争の根源に気づかされました。全国各地の子どもたちから松本館長に寄せられた手紙には、いじめはなくさなければならないということが、一人ひとりの言葉で書いてありました。松本館長の想いは、子どもたちの心へ確かに伝わっています。
 戦後70年を経て、日本は世界有数の先進国となりました。諸外国で起こっている戦争はテレビの向こう側のこととなり、回天特別攻撃隊をはじめとした戦争の記憶は、次第に失われつつあります。だからこそ私たちは、その記憶を守り、語り継ぎ、平和の尊さを学ぶ必要があります。多くの人々が命を落とし、絶望に嘆き悲しむ戦争は、二度と起こしてはなりません。
 一人ひとりの“人間賛歌”の心があれば、世界平和はきっと叶えられるはず。松本館長が灯してくださった胸の奥の小さな光は、そう背中を押してくれているようです。

平和の島プロジェクト 〜失われていく回天の記憶を守り、未来へと語り継ぐために〜

(一財) 周南観光コンベンション協会

プロジェクト立ち上げの経緯

回天実物大模型(徳山港)回天実物大模型(徳山港) 人間魚雷「回天」が1944年(昭和19)11月8日に初めて実戦に投入されてから、2014年(平成26)で70年を迎えます。また翌年は、戦後70周年という大きな節目を迎えるとともに、多くの戦争体験者の方々は亡くなられ、戦争の事実は風化の一途をたどっています。
 そのような背景の中、山口県周南市に訓練基地が存在した「回天」の史実を、美化することなく冒涜することなく、後世に正しく伝えていくことが急務であると考えています。
 愛する人たちと故郷のために、自らの命をかけて戦った回天特別攻撃隊。彼らが存在した史実と後世に託した想いを風化させない、また悲惨な戦争を繰り返さないよう、平和への願いや祈りを込めて取り組むとともに、この周南市から日本へ、そして世界に向けて恒久平和を発信していきます。

掲げる3つの目標

佐藤秀峰「特攻の島」との協力で、回天の史実をわかりやすく伝える

佐藤秀峰著「特攻の島」佐藤秀峰著「特攻の島」 2014年現在連載中の漫画「特攻の島」は、太平洋戦争末期の大津島を舞台に、回天特別攻撃隊を描いた作品です。この「平和の島プロジェクト」では、作者の佐藤秀峰氏とその作品「特攻の島」にご協力頂くことで、回天を知らない方々、また戦争を知らない世代の方々に、わかりやすく回天の史実を伝えていきます。

回天記念館分館本土建設

馬島港(大津島)馬島港(大津島) 毎年多くの方々に訪れて頂いている回天記念館ですが、記念館のある大津島へ渡るには、1日数便のフェリーと連絡船に限られています。様々な事情で大津島に行けない方々にも、島に眠る隊員たちの想いに触れて頂きたい。そうした願いから、回天記念館と本土をつなぐ中継施設として、本土分館の建設を熱望しています。

回天実機永久貸与

回天実物大模型(回天記念館)回天実物大模型(回天記念館) 実戦で使用された回天は、アメリカが持ち帰った4基を残し、すべて破壊されました。しかし1979年(昭和54)10月、その内の1基である基地回天隊用「回天一型改一」は日本に永久貸与され、国内唯一の実機として靖国神社に奉納されています。
 しかしながら回天記念館にある回天は、地元の企業が協力して製作した実寸大のレプリカです。そこでアメリカに渡り、回天実機の永久貸与の交渉を行い、隊員たちの遺品とともに納めることを計画しています。そしてこの活動を通じて、世界平和の実現に向けた国際交流を図ります。

平和の島プロジェクト基金

平和の島プロジェクト 平和の島プロジェクトでは、この3つの目標を実現し、世界平和に貢献するため、基金を設立しています。回天を多くの方に知って頂くための関連商品の売り上げは、基金として平和教育活動の費用にあてられます。
 またこれら商品の一部には、漫画「特攻の島」の作者である佐藤秀峰氏に、デザインのご協力を頂いております。一人でも多くの方々、特に若い世代の方々に回天を知って頂く中で、平和について考えるきっかけになればと考えております。

店舗紹介

  • 一般財団法人 周南観光コンベンション協会
  • 山口県周南市みなみ銀座1-8
  • TEL:0834-33-8424
  • URL:http://www.kanko-shunan.com/

一般財団法人 周南観光コンベンション協会